抜粋;心脳問題のポイントできるだけ短く仕上げたいと思っています。 さらにこの論を要約したものも書こうと思います。 他人の書いたものはほんとに理解しにくいものです。 私も、進歩するために、人の書いたものをまずは理解することに努めています。 ここでは、私の論の中にある数多い定義、モデル、仮説、などの中から(どれが現実を記述しているのかすべて要検証です)、可能性の高そうなものや、興味深そうなもの、ポイントになりそうなものなどを挙げてみます。 コンピュータを心脳のモデルにできるという保証はありませんが、可能性追求の一貫としてそういうこともやってみました。 そうすると、六つの超難問も、満たされる、あるいは理解ができる・説明がつく。 そこが注目点です。 ただし、今の段階ではそれは仮説のようなものであって、要検証です。 多数ある、厳密な定義としての独自用語は用いず、普通の用語をつかいます。 ただし、その分、不正確になるので、曲解されやすくなりますが。 抜粋;心脳問題のポイント1~6 コンピュータを例えにすると、心脳問題におけるさまざまな実験結果や観察などがうまく説明されます。 筆者は、かなりな昔から、心脳問題におけるモデルのひとつとして、コンピュータも用いてきました。 例えば、モニタを意識に、情報処理の中枢をCPUなどに例える、といったふうに。 もちろん、心脳をコンピュータでたとえられるという保証はゼロであって要検証です。 その例えにおけるポイントのひとつは、「分業」でしょう。 実際に脳も分業になっているようにみえます。 たとえば、脳の中で、意識に関係ある個所以外の多くを失っても、変わらず意識は存在する、ただ、記憶、情報処理の仕方(思考力を含む)、能力など、に欠けがでたり変化したりするだけで、ということから、そういう印象を受けるわけです(要検証)。 そこのところを解説していきます。 念には念をいれていいますが、脳をコンピュータに例えていいのかどうか、なんの保証もありません。 何度も書かないと誤解・曲解される。 そういうことなので繰り返しますが、それらは仮説のようなものであって、要検証です。 まず、次の文献を挙げます。 (1)<認識におけるマッハの原理(by茂木氏)から抜粋> >より正確に言うと、そのニューロンと相互作用によって結びついたニューロンの発火の連なり(クラスター)が、全体として「バラ」という認識をコードしていると考えられる。脳の中のニューロンは、一つを取り出しても意味がなくて、第一次視覚野からV2、V4、そしてIT野の「バラ」ニューロンの発火に至る、相互作用で結びついたニューロン発火のクラスターが全体として「バラ」という認識を支えているわけである。 (2)<認識のニューロン原理(by茂木氏)から抜粋> >ケンブリッジ大学の神経生理学者ホラス・バーローが1972年に提案した、認識のニューロン原理だ。 >つまり、私たちの心の性質は、どんなメカニズムに基づくにせよ、ニューロンの発火状態によってのみ決まるというわけである。これは、今日知られている様々な実験的証拠から考えて、妥当な仮定だということができるだろう。 >高次の視覚野にいくほど、より複雑な反応選択性を持ち、受容野(視野の中で、そのニューロンを発火させることのできる刺激の位置の範囲)の大きいニューロンが現れる。 (以上の抜粋は、茂木氏のサイトからのものです) 以上とその他から発想したのは、コンピュータで例えるとして、「CPU+RAM+ソフトウェア+α」(ソフトウェアについては活性化して稼働しているものという条件がつく。活性化していないソフトウェアは単なる記録のようなものである。RAM内にあるものは活性化しており、ハードディスクなどの記憶装置内にあるものは活性化していない、と表現する)がどこかにあるのではないか、ということです。 脳の中に情報処理の中枢部位がどこかにあって、その活動が、コンピュータでの例えとしての「CPU+RAM+ソフトウェア+α」として働き、脳のもつ情報を、例えとしてのハードディスクのシリンダ(トラック)のあちこちで参照しているようにみえます(そのソフトウェアはRAM上にあり、活生化していて働ける状態にあるとする)。 あるいはそれに加えて、現在の状況にまつわるさまざまな情報をあちこちに記録しているようにもみえます。 その中でも例えば、「>高次の視覚野にいくほど、より複雑な反応選択性を持ち」からも、そういった情報にまつわるその個人独特の情報(過去からの経験などによって身についた傾向・特質・性質といったようなもので記憶のようなもの)や、色覚についていえば色の恒常性を保つ情報源などといったもの(色覚以外にもいろいろあるでしょう)、を参照して、その情報(心的内容)を構成・生成していっているように感じます。 あるいはそれに加えて、新しい情報・新しく生成された情報を記録していっているようにも感じます。 つまり、そういったところのニューロンたちの発火は、情報処理の中枢部位がなさせているような印象を受けるということです。 次に、 リベットの実験からも、コンピュータでの例えの有効さがわかります。 リベットの実験について、重要なものふたつを簡単に説明すると、ひとつは、(3)「人は自分が決断したと思ったコンマ数秒前に、すでに決断しているという結論がでてくる実験とその結果」、もうひとつは、(4)「人は、感覚などの体験を意識しないでおくこともできるし、コンマ数秒前に遡って意識することもできる(これは私の解釈です)という結論を導き出せる実験とその結果」もうまく説明することができる(後述)。 さらに、(5)「一次視覚野が視覚情報の処理の出発点になっていて、それ以外の高次視覚野で情報処理をしても、最後に一次視覚野にその情報を戻さないと、あるいは、戻しても、一次視覚野の活動を抑制すると、視覚刺激の、主観的感知ができない、あるいは、判別能力が低下する、とまとめることができそうなふたつの実験とその結果」も、コンピュータの例えでうまく説明することができる(後述)。 「(5)」のそのふたつの実験に関する記述(このサイトで知った)「以下引用」 「「視覚刺激による一次視覚野の反応は、まず刺激を提示してから30ミリ秒付近で起こり、ついで100ミリ秒付近で起こる。このふたつめの反応がないと視覚刺激を主観的に感知できない」 (Super et al ., 2001) 「視覚刺激が提示されてから100ミリ秒後、つまり、一次視覚野から高次の領域へ行って帰ってきた時点で一次視覚野を抑制すると、視覚刺激の判別能力が低下する」 (Walsh&Cowey,1998)」 「以上引用」 (6)脳のニューロンたちは、ひとつの(ひとまとまりの)情報の処理を行うにあたって、時間的にも空間的にも分散並列処理をなしているが、その時間的・空間的バラバラ性(分散された多くの局所性)から、どうやって、一体化・全体化した情報を形成し意識するのか、未だ解明されていない。 注)これは、「(1)~(5)」とも関連している。「(1)~(5)」をまとめている、という要素が多い。 さて、なぜ脳をコンピュータに例えるのが有効なのか、論を進めるために、ここで、心脳問題を理解するための、コンピュータを例えにした、脳などのモデルを提示します。 データを提示しながら行う個所があるので、そこはちょっといびつな表現になります。 本来なら、データなどは考慮せず、脳をコンピュータに例えるところだけを行ってから、データなどの解釈を行えばすっきりと記述できるのですが。 心脳における情報処理中枢(たぶん、いわゆる潜在意識だろう?)(定義によっては、潜在意識は潜在心と呼んだ方がより適切)は、「CPU+RAM+ソフトウェア+α」で例えられ、そこが複雑な情報処理を行っているが、そこの情報処理のようすや情報処理途中の情報は意識されない。 意識は、モニタ(での現象)にあたり、モニタに「CPU+RAM+ソフトウェア+α」が情報処理し生成した情報が送り込まれ、モニタで意識内容が生じ意識される。 モニタ(意識)は情報処理を行わない。 その意識内容(または意識、あるいは両方)あるいは、意識内容を意識している状態・現象が心(顕在心)といえるだろう、この論の定義・用語においては。 注)言葉を用いるところに生じる意識、というのは、知的操作感であって、それは、意識内容の一種、または、その意識内容を意識している状態+その意識内容、あるいは意識の一種、だといえるのではないだろうか。この論の定義・用語においては。 注)クオリアについていえば、以上の流れの中では、次のように定義していいのではないだろうか。 意識内容。または、意識内容の一種。あるいは、意識内容を意識している状態でのその意識内容。もしくは、意識内容を意識しているという現象とその意識内容。 視覚野における、一次視覚野以外の高次視覚野などは、コンピュータで例えると、ハードディスクなどにあたり、「CPU+RAM+ソフトウェア+α」がアクセスし、情報を集めたり書き込んだりしている、と例えられる。 一次視覚野も、ハードディスクで例えられるような機能をもっている可能性もあるが、情報処理中枢である「CPU+RAM+ソフトウェア+α」との連絡接合個所であるような印象も受ける。他にもそういった連絡接合個所はいくつもあるだろう。 ハードディスクで例えられる脳の部分は、もっと広範囲にわたるだろう。データ不足なので、それ以上は解説できないが、他の感覚や感情、思考、想像、などにおいても同じようなことが行われていると推測されるので、ハードディスクにあたる部分は脳においてかなり広いだろう。 (仮説のようなものであって要検証) 私の「印象メモ;知性の器(心の器)、そのアクセスとニューロンの発火」から(以下引用) 「コンピュータで例えると、脳のいくらか、から、かなりの部分がハードディスク+αであって、「CPU+RAM+ソフトウェア+α」がそれにアクセス(そのとき発火)して情報をかき集めたり書き換えたり書き加えたり記録したりしていっているようにみえるということです。 コンピュータでも、記録場所としてはハードディスク+α上にある、レジストリや、記録場所、その他さまざまな個所の、読み出し、書き換え、書き加え、記録、などをやっています。 それにそっくりにみえるということです。」 (以上引用) コンピュータの主要部分による例えはだいたい以上ですが、その他の例えについては、後述します。 次に、以上の例えを用いて、(1)(2)(3)(4)(5)(6)をずばり理解する道筋を記します。 まず、脳をコンピュータに例えれば、(1)(2)共に満たされる(だろう)、ということです。 上述の記述によって、そこは確認できると思います。 (3)(4)の理解。 これも、分業がポイントのひとつになっている。 モニタ(意識)に、生成された情報がはいるまでは、その情報は意識されない。 たとえば、人が決断をしたと意識するのは、モニタ(意識)に決断の情報がはいった時刻においてであり、例えとしての「CPU+RAM+ソフトウェア+α」の活動、「CPU+RAM+ソフトウェア+α」のハードディスクなど(例えとしての)へのアクセス、などによって決断の情報が生成されるのは、それ以前だということが納得される(その時、脳波などに、決断時の特徴的な信号特性が現れる、と)。 さらに、「コンマ数秒前に遡って意識することができる」という現象もそれで理解できる。 「意識しないでおくことができる」のは、情報生成の過程で、なんらかの理由で情報が生成されなかったか、 あるいは、生成された情報をモニタ(意識)に送り込まなかったからだ、と理解される。 (5)の理解。 ついで、心脳の情報生成における、例えとしての「CPU+RAM+ソフトウェア+α」の活動、「CPU+RAM+ソフトウェア+α」のハードディスクなど(例えとしての)へのアクセス、などがうまくいかなかった場合は、いびつな情報が生成されたり、不完全な情報が生成されたりで、結局、主観的な感知や判別能力が低下するといったことが起こることが理解される。 (6)の理解。 ずばり理解できる。 以上で、脳をコンピュータで例える有効性がわかります。 したがって、それが現実を記述している可能性は高そうですが、もちろん、要検証です。 実際、自分の意識が成立している時、記憶、考え方、今までの体験、境遇、才能、能力、その他、などは、意識内容の成立に関わっている場合はあるが(関わっていないこともある)、自分の意識そのものの成立には関わっていないことがわかります(この論の流れの中では。要検証)。 脳には、意識に関わっている部位があって、そこが失われると意識がなくなるが、意識に関わっていない部位たちは、それらが欠けても意識はあり続ける、という観察もある(と思う)。 それが正しいとすると、記憶や考え方、境遇や経験などによって形成されてきたもの、その他、などに関わる部位たちは失われても、意識内容が変わってくるだけであって、あるいは、以前のような意識内容を形成できなくなるだけであって、自分という意識は変わらず存在する、と理解される。 (仮説。要検証) つまり、自分が自分であるのは、結局のところ、「自分という意識」によるのであって、意識内容やそれに関わるところにはない、ということもいえるでしょう(この論の上では。要検証) もちろん、「意識内容が自分だ」という意味もよくわかります。 (そこらあたりについても、「メモ;質の科学・意識とクオリア・心脳問題の基礎」などに記してあります)。 私はかなりな昔から、そういった分業にも着目していたのですが、そこから更なる論を展開発展させることができます。 参考) 「CPU+RAM+ソフトウェア+α」の活動は、同じところで繰り返し行われるので、脳でのニューロンの一団の発火がそういった状態を示さないのならば、そういったニューロンの一団の多くには、コンピュータで例えた「CPU+RAM+ソフトウェア+α」の部位は存在しない・関連していない、という可能性がある。 情報処理の対象が変われば発火しなくなる(極端に減る)ような部位(ニューロンの一団)は、例えとしての、「CPU」、あるいは「CPU+RAM+ソフトウェア」、または「CPU+RAM+ソフトウェア+α、さらにあるいは「意識の器(別な稿にあります)」に関連しない部位である可能性が高い。 (A)目覚めているときには、発火し続ける(発火することが多い)ニューロンの一団は、意識の部位か情報処理中枢部位に関連している可能性がある。 意識の部位の方が、その活動はより持続的だろうだから、発火もより多いかもしれない。 「(A)」の条件を満たした上で、眠っているときに、その発火の程度が小さくなる部位があるとすれば、その可能性はさらに強化されると考えられる。 心脳の持つ機能・行いを表した言葉・単語というのは、非常に多いが、それらは結局、「意識」「心」「情報処理中枢の機能」「ハードディスクなどで例えられる機能」「あと何か」のどれかに分類されるのではないか。 また分類できるような体系は必須である。 (その参考) 「心、精神、認識、主観、自覚、知覚、思考、意志、意思、考え、想像、気づく、配慮、関心、感心、心がけ、認知、理解、意味、価値、遠慮、推測、勘、感じ、気持ち、情け、知る、覚える、悟る、覚る、鑑みる、省みる、感じる、味わう、見る、聞く、話す、比較、断定、納得、推察、感情、感覚、情動、自覚、本能、案じる、納得する、感知する、関知する、見分ける、わきまえる、認める、意図的、意識的、自信、知性、理性、感性、悟性、知・情・意、感覚、解釈、感動、心理、無意識、潜在意識、感嘆、識別、主観、客観、知識、思慮、思惑、 気持ち、心持ち、思いやり、情け、情趣、おもむき、望み、志、考え、意味、わけ、心当たり、こころある、心得、心がけ、こころざし、心に受け止める、などなど。 (さっと拾い上げただけで、未検討。品詞不統一) (重なっているところ、重なっているもの、が多そうですが。不必要なものもありますが。まだまだあるでしょう)」 以上の単語などの実態のほとんどは、「CPU+RAM+ソフトウェア+α」で例えられる部位(心脳の情報処理中枢)が行っている、あるいは、「CPU+RAM+ソフトウェア+α」で例えられる部位が「ハードディスクなど」で例えられる部位(心脳における、情報整理・情報構築・情報記録などを行うためのハードディスクなどのような部位)にアクセスしながら行っている、といえるのではないだろうか。 「意識」以外はほとんどすべてがその範疇にはいりそうである。 実際、コンピュータのソフトウェアについていうと、OSはひとつである場合がほとんどであるが、アプリケーションソフトにはさまざまなものがある。 心脳においても、知性面(思考面)、理性面、感情面、性格面、能力面、才能面、などなど、それぞれのアプリケーションソフトにあたるソフトウェアのようなものがある可能性も考えられる。 参考) 人間のもつその他の機能とその部位(器官など)を、コンピュータなどで例える(コンピュータに接続してあるものとして)。 目;カメラ 耳;マイク 口(話す);スピーカー ペンで書く;キーボードその他 マウスは?(いってみれば、意識の中に注目点を示す?) そういったデバイスの中には、デバイス自体に電子部品が組み込まれており、専用のソフトウェアもそこに入っているものもある。 デバイス内に電子部品が組み込まれてはいるが、ソフトウェアというほどのものは入っていないものもある(電子部品が構成する電子回路の機能を実現しているのはソフトウェアのようなものだ、という観点もあるが)。 単純なデバイスでは、電子部品もソフトも入っていないものもある(マイクなど)。 (以上の三点のどこかは、間違っているかもしれません。調べきれませんでした。要確認) 一方、そこからの情報を受けるコンピュータの「CPU+RAM+ソフトウェア+α」にも、それを受ける専用のソフトウェアがある。 人間の各機能とその部位(器官など)と脳も、それに対応しているような要素たちを備えているケースがあるような印象を受けます。 研究中) 心脳において、「意識」をモニタする機能・部位はあるのだろうか。 これにはふたつの意味がこめられている。 ひとつは、意識(モニタ)から、心脳の情報処理中枢へ、「今、意識があって、ちゃんとその情報(心的内容→意識内容)を意識しているよ」というフィードバックがあるのかどうかということ。 (たぶん、というか、当然というか、それはあるだろう) (マウスのポインタは、いくらかそれに似た役割をなしている) (タッチスクリーン的モニタはそのフィードバックの程度が高い) もうひとつは、コンピュータにおいていえば、「モニタ」をモニタするのは、人間である、といった意味においてであり、波動性の高い意識なる存在があって、意識をモニタしているのかどうか、ということ。 (これは、別の論にある、「意識は一体性・全体性を形づくっている。しかし、脳という物質の組織は、波動性において一体性・全体性を形成できない」という特徴から攻めていけるのかもしれない) 私の他のいくつかの投稿の中には、さらに参考になる項目があると思います。ただし、極めて読みにくいですが。 そのうちにすっきりとまとめたいと思っています。 さらにその中からいくつかピックアップして、短い論にまとめて投稿しようとも思っています。 (以上、仮説のようなものであって、要検証です)。 ここで時間切れです。 (続く) 私の論は研究途上にあり、まだまだ不完全であって、いつでも訂正・加筆の用意があります。 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